kimmaのシネマブログ

映画とたまに本・ドラマの感想・自分なりの解釈について。あくまで1個人の意見です…

『LAMB ラム』監督:バルディミール・ヨハンソン

〇作品概要

・2021 年製作のアイスランドスウェーデンポーランド合作

・106分

〇感想・見どころ ※内容含みます

 これまでにあまり体験したことのない雰囲気の作品だった。全体を通してほとんど会話がなく、音楽もない。また、主な登場人物も4人と非常に限られており、出てくる場所も夫婦が住んでる山間のみだ。とてもポップコーンなんて食べられないよう静寂が終始蔓延しているため、それがより一層不気味な雰囲気を作り出し、何か悪いことが起きるのではないかとドキドキせずにはいられなかった。また、物語自体も、夫婦の過ごす田舎生活のように特段何か大きな事件が起きるわけではなく、穏やかにゆっくり進む。

 これだけ聞くとつまらないと感じる人も多くいるかもしれないが、その一方で奇妙な出来事はずっと画面の中で起こっているのだ。それは、マリア(ノオミ・ラパス)とイングヴァル(ヒナミル・スナイル・グブズナソン)という羊飼いの夫婦が、体の半分が羊で、半分は人間の体をした異様な生き物をアダと名付けて、まるで我が子のように育てているということだ。この世のものとは思えない奇妙な生き物の誕生を、あまりにも普通に受け入れ、普通に育てている様子は冷静に捉えると背筋がゾクっとする。その不気味な光景をじっと眺めているという体験が、本作の魅力であるに違いない。

 また、本作はキリスト教に関連していたり、聖書に基づいている部分が多いと感じた。例えば、物語はクリスマスの日から始まったり、聖書的にはキリストの誕生を知らされるのは羊飼いであり、キリストの母の名前はマリアであったりする。それに、羊はキリスト教徒を表すそうだ。こういったことから、アダという存在が、何か神からの送りものであるのか?マリアたちの元に生まれてきたのは必然だったのか?何か元になった聖書や神話が存在するのだろうか?…など鑑賞後にいろいろと考えてしまった。そのため、一見単純そうに思えて意外と考察のしがいがあるという点も本作の魅力であると感じた。

『川っぺりムコリッタ』監督:荻上直子

〇作品概要

・2022年公開の邦画

荻上直子のオリジナル長編小説を自身で監督・映画化

〇感想・見どころ ※内容含みます

あらすじだけや予告では想像できなかったのだが、本作は「生」と「死」について鮮明に描かれた作品だった。主人公の山田(松山ケンイチ)は、小さい頃に生き別れた父親が死んだと連絡を受け、遺骨を預かることになってしまう。山田の隣人の島田(ムロツヨシ)も、どうやら過去に息子がいたようだ。また、大家の南(三満島ひかり)は数年前に夫を亡くしており、山田の向いに住む溝口(吉岡秀隆)はお墓を売ってる。このように、登場人物全員の身近に「死」が存在しているのだ。そうして、「死」と密接に関わって生きている彼らだからこそ、その生活からは「生きている」ということが強く伝わってくる。例えば、彼らは経済的に裕福とは言えないが故に、庭で野菜を育てて自給自足の生活をしていたり、給料日に何日ぶりのご飯をとても美味しそうに食べる。また、隣人たちとは常に一緒にいるわけではないけど、困った時には黙って互いに助け合いながらなんとか一日一日を生きている。それらのシーンからは、”生命力”のようなものを感じざるを得えなかった。

人はいつか誰もが必ず死ぬわけで、それと同時にその時まで生きなくてはいけないわけでもあるのだが、どれほど辛くて大変なことがあろうと意外と何とかなる!炊き立てのご飯の香り、熱々の湯船に浸かること…そんな些細な幸せの積み重ねで意外と人間って生きていけるものだ…ということを、山田たちの細やかながらもたくさんのぬくもりに溢れている日々が教えてくれた。

『善き人のためのソナタ』監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

〇作品概要

・2006年製作のドイツ映画

・138分

アカデミー賞にて、外国語映画賞受賞

ニューヨーク映画批評家協会賞にて、外国語映画賞受賞

 その他多数受賞

〇感想・見どころ ※ネタばれ含みます

舞台となった1984年の東ドイツには、未だ戦時中であるかのような秘密組織、監視、拷問が存在していたという史実にとても驚いた。そのような、当時の日常生活に蔓延する緊張感が終始画面から伝わってくる少し重めの雰囲気の作品だった。

本作は、秘密警察のビースラー(ウルリッヒ・ミューエ)が、反体制派の疑いのある劇作家のドライマン(ゼバスティアン・コッホ)の日常を、日中屋監視しする様子が描かれている。表情を一切変えることも動揺することもなく、いかにも恐ろしい秘密警察という様相のビースラーは、ドライマンを確実に”黒”だと決めてかかり、確証を手に入れるために家中に仕込んだ盗聴器で日常の会話を全て盗聴し、記録に残してゆく。しかし、ある時からビースラーはドライマンの怪しい動きや証拠となるようなものを耳にしても、記録に残さずになかったことにするようになる。一体ビースラーに何が起きたのだろうか。

恐らく彼は、盗聴を通じてドライマンの全てを知ることになったことで、彼に同情を抱くようになってしまったからであろう。人間は相手のことを知らない方が、相手を簡単に傷つけることができると思う。その一方で、親しい人を傷つけることはより一層大きな痛みを伴うことは容易に想像できる。だからこそ、ビースラーは日々監視する中で、ドライマンのことを知りすぎてしまったことで、彼を傷つけることができなくなってしまったに違いない。つまり、ビースラーは社会主義に反対意見を持つようになったから、ドライマンの味方をしたというわけではなく、単純にドライマンを同じ一人の同情するに値する人間として捉えるようになってしまったが故に、彼を守りたくなったのではないかと感じた。

そうして、結果的にドライマンはビースラーによって救われる。そして、何年も後に、実は自分がビースラーによって守られていたという事実を知ったドライマンは、ビースラーのためにある素敵な贈り物を送るのだ。この結末の展開がとても美しく、それまで本作では人間の冷酷な面や弱さばかりが描かれていただけに、一気に心が温かくなった。それと同時に、本来人間の心は温かいもので、どんな人でも必ず心に善良さを持っているのだという希望を与えてくれたようだった。

最後に、「善き人のためのソナタ」というタイトルにもとても深くて素敵な意味が込められているので、ぜひ実際に観て確かめて頂きたい。

『ショコラ』監督:ラッセ・ハルストレム

〇作品概要

・2000年製作のアメリカ映画

・121分

アカデミー賞にて、作品賞・主演女優賞・脚色賞など5部門ノミネート

ゴールデングローブ賞にて、作品賞・主演女優賞・作曲賞など4部門ノミネート

・その他多数受賞

〇感想・見どころ ※内容含みます

本作は、ディズニーのおとぎ話のようなナレーションで始まる。そのため、昔々の遠いどこかの本当にあったかも知れない物語…というような世界観が、音楽や舞台となる村など全てから一貫して漂っている点が素敵でよかった。

町を転々としている主人公のヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)が、娘のアヌークを連れて今回辿り着いた町は、古風な宗教的な厳しいしきたりを守っている小さな村だった。そこで、何にも縛られずに自由に生きているヴィアンヌたちがチョコレート店を営むことによって、村の人々に影響を与えていくというのが物語の大筋だが、度々出てくる美味しそうなチョコを見ているだけでも、つい笑みがこぼれてしまうような幸福感を感じる作品だった。ヴィアンヌを異端者だと煙たがる人もいる一方で、カカオの香りに誘われて、つい店の中に入ってしまい、つい一口食べてしまうと思わず幸福な表情になり、あっと言う間に常連になってしまう人々の様子が、チョコレート好きとしては共感の嵐で、ワキワキしてしまった。

一方で、本作はただのチョコレートの物語では終わらない。ヴィアンヌは村のしきたりに苦しんでいる人々をチョコレートで癒すとともに、彼女たちを苦しめている根本的な原因を解決してあげようとするのだ。例えば、夫に暴力を振るわれているが、宗教のきまり上離婚はよくないため離婚することができず、心も体もボロボロになっていた女性には、そんな決まりを守る必要なんてなく、あなたの人生はあなたのものだ!と諭し、彼女を夫の元から連れて出してあげる。そのようにして、厳しい規律を守ることは当たり前だと思い込み、知らぬ間に自分たちの首をしめている村びとたちに、ヴィアンヌは「絶対にこうしなくてはいけない」というものが存在しないことや、何よりも人生を楽しむことは素晴らしいことなのだ、ということを教えていく。村の中では孤立している考え方だとしても、自分の正義を貫き、分け隔てなく人々に救いの手を指し延べるヴィアンヌの姿からは、改めて思いやりがどういうものかということや、正義を貫く勇気を学ぶことができる。

そして、最も心に響いたのは、ラストで村の神父が村人に向かって送る言葉だ。「人間の価値は何を禁じるのか、何を否定するのかではなく、何を受け入れ、何を歓迎し、何を創造するのかで決まるのではないだろうか」ということを村人全員に向かって伝える。このセリフこそが、まさにこれまでヴィアンヌが村人たちに伝えたかったことに違いないと胸がいっぱいになると同時に、この言葉は厳しい戒律を守っている人だけではなく、どんな人も心にとどめて置くべき素敵なセリフだと思い、この言葉を聞いた瞬間本作を観てよかったと心から感じた。

多数の受賞歴があるだけに、ファンタジー要素もありつつ、本作のメッセージ性はとても素晴らしいもので、かつそのメッセージをを優れた物語の構成によって納得感のあるように伝えられている点が大変魅力的だった。

 

 

 

 

 

 

 

『ピザ!』監督:M・マニカンダン

〇作品概要

・2014年製作のインド映画

・90分

〇感想・見どころ ※内容含みます

一見コメディ映画と見せかけて、貧困問題や、児童虐待、大人の姑息さなどをさりげなーく入れてくるところが、ほんっとに秀逸で、ストーリーも終始飽きることなくおもしろかった。

スラム街に住む学校にも行けていない貧しい兄弟は、ある日テレビでピザを見て以来、ピザが食べてみたくて仕方がない。そこで、石炭集めをして、地道にピザ代を稼ぐことにする。そして、何日か後にやっとピザ代が貯まった兄弟はピザ屋に足を運ぶのだが、スラム街の子供が来る場所ではないと門前払いをくらってしまうのだ…。何日間もかけて一生懸命にピザ代を稼ごうとする幼い兄弟を見ているだけで、なんだか泣けてくるし、今すぐにでも彼らにピザを買ってきてあげたくなる(笑)それにも関わらず、門前払いをする大人がいるとは!兄弟がどれほど汗水を垂らして、ピザを食べることを待ちわびていたことか!!それでも心折れずに、今度は見た目で判断されないように新しい服を調達しようと、再び石炭集めに励む子供たちの姿に切なさがこみあげてきた。

そうして、兄弟たちは見事新品の服を身に付けて、再びピザ屋を訪れる。やっと彼らにピザを食べさせてあげられる!と嬉しくなったのもつかの間で、なんと彼らは再び入店を拒否されてしまうのだ。なんてひどい世の中なのだ!と、憤りすらも感じ始めた頃、そこからストーリーは思わぬ展開を見せ始める。そして、予想外の形で兄弟たちはピザを食べるという夢を叶えることになる。その夢が実現された背景には、悪い大人や心の小さい大人、お金に目がくらんだ大人などが要因となっているところが、非常におもしろい。純粋でまっすぐな兄弟たちとは対照的に、大人たちの悪賢さが滑稽に描かれているのだ。どうか兄弟たちには、彼らのような姑息な大人にはならないでほしいと願わずにはいられない。感動も笑いも涙も、全てが詰まった素晴らしい作品だった。

ぜひ、兄弟たちがどうやってピザに辿り着けたのかを作品を見て確かめて頂きたい。ついでに、念願のピザを食べた彼らの感想も聞き逃さず…笑

『スワンソング』監督:トッド・スティーブンス

〇作品概要

・2021年製作のアメリカ映画

・実在の人物であるパトリック・ピッツェンバーガーがモデルになっている

〇感想・見どころ ※ネタばれ含みます

 序盤までは、過去の栄光にしがみついてるちょっと痛いおじさんの話か…と正直思っていたのだが、途中からあれ??なんかかっこいいなと思い始めた。そして、作品を観終わった時には自分の考えが180度変わっていて、しがみつきたくなるほどの過去の栄光があるってかっこいい!そんな風に後から振り返っても、誇りを持てるような人生を送るってすごいことじゃん!と思うようになっていた。

 パットこと、パトリック・ピッツェンバーガー(ウド・キアー)は今は老人ホームにいるおじいさんだ。ある日、亡くなった親友が、死に化粧をパッドに依頼したいと遺言書に残しいたことを知り、パッドは老人ホームを抜け出して亡き親友に会いにいく旅に出る。はじめはジャージのダサい恰好のパッドだったが、ミント色のスーツに着替えたら全くの別人になり、その様はさすが昔の美容師のカリスマ!というところ。服装で人の印象ってここまで変わるのか!と衝撃を受けた。昔と比べて町も人も大きく変わってしまっているけれども、パッドの心は折れず、かつて自分が踊っていたゲイバーで再び踊りを披露し観客を魅了する。そんな彼の姿からは、過去の栄光にしがみついて何が悪い!自分は今もカリスマ的存在であり、その能力は健在だ!という自信が伝わってくる。その高慢さが、始めはちょっぴり痛いと思っていたが、気づけば清々しいと思うようになっていた。しかも、その自信をちゃんと裏付けるように、パッドの才能は衰えていないのだから、観ている方は彼に乾杯するしかない。

 将来人生を振り返った時に、パッドのように今の自分を誇りに思えるだろうか、未来の自分を支えられるような生き方を現在しているだろうか…そんなことに気づかせてくれる作品だ。

『百花』監督:川村元気

〇作品概要

・2022年公開

ワンシーンワンカットで撮影

〇感想・見どころ ※ネタばれ含みます

本作では、認知症と診断された百合子と、母である百合子に向き合う息子の泉の様子が描かれているのだが、泉の妻に言わせると2人はちょっと変わった親子だ。なぜなら、過去に百合子が泉を置いて1年間男のところに行き帰ってこなかったことがあり、泉はそれを忘れられず、百合子と微妙な距離間を解消できずにいるからだ。そんな2人の現在の姿が、時折過去の回想を交えながら描かれる。

そのような物語の中で終始まとわりつくのは”記憶”だ。泉が、職場でヴァーチャルヒューマンアーティストを創るという業務をしている際、記憶を詰め込みすぎたからうまくいかなかったのか?記憶を忘れる機能があった方がよいのか?という意見が交わされたる場面があったり、「記憶が盗まれるって怖い」とセリフがあったり、百合子が認知症であることからも”記憶”とは一旦何なのだろうかということを無意識的に考えさせられる。そして、記憶の中でも、特に家族との記憶は、親にとって、子にとってそれぞれどいういう風に残り、何が色合わせていくのだろうかと自分に重ね合わせて考えてしまう。百合子と泉の大切な思い出でである”半分の花火”を、認知症の百合子が覚えていたのに、泉は覚えていなかった。そんな切ないことが判明した時に、泉は、あの時百合子は自分を捨てたわけではなく、自分を愛していなかったわけでもなかったのだと思えたのかもしれない。そして、百合子の過ちを許すことができたのかもしれない…。多くの記憶を共有している相手の記憶が失われていくことを目の当たりにする苦しみと、そんな中でも残り続ける記憶の美しさに、感極まるような作品だった。

また、全体的な雰囲気としては、度々ピアノの音色が響き渡る感じや、時代・記憶が錯綜する構成において洋画のような雰囲気を纏っている作品だと感じた。

 

個人的な感想としては、なんだか泉に完全に感情移入してみることができず、終始客観的にみてしまう自分がいた。その理由は、私が女だからだろうかと思い、この作品を観て改めて母と娘の関係と、母と息子の関係というのはまたちょっと違うのだろうなと改めて思った。