kimmaのシネマブログ

映画とたまに本・ドラマの感想・自分なりの解釈について。あくまで1個人の意見です…

『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』監督:シャンタル・アケルマン

〇作品概要

・ベルギー・フランス合作

・1975年公開

・上映時間…200分

 未亡人であるジャンヌ・ディエルマンは、息子と2人暮らしのどこにでもいる主婦である。彼女は、いつも規則正しく変わり映えのしない日々を送っている。本作はそんな彼女のある3日間の、いつもの時間に起床してから、朝食の支度をし、息子を起こし、息子を学校に送り、夕食の買い物に行き…という至って普通の行動を、会話もほぼなく200分という時間をかけて描いていく作品である。ところが、3日目になって彼女の日常は少しずつリズムが狂い始める。

〇感想・見どころ 

①これまでにない稀有な映画体験

 非常に稀有な映画体験であった。固定されたカメラによって映しだされるものは、本当に普通のどこにでありそうな1人の主婦の日常生活で、なんだか他人の私生活を監視カメラで勝手に除いてしまっているような感覚であった。しかも、それも大勢の見知らぬ人々と一緒にただ黙ってじっと1人の人間の生活を除いているというのは、ものすごく不思議な体験であった。

 また、本作では会話はほとんどなく、音楽もない。聞こえてくるのは、ジャンヌ・ディエルマンが作りだす、食器がぶつかる音、水の音、電気を消すボタンの音などの日常音だけだ。しかし、それがなんとも言えず心地よい。それらの音は、私たちが生まれてからもう何度も耳にしたことのある音のはずなのに、これまでに聞いたことがないように新鮮に感じるのだ。私たち身の回りには、これほど素敵な音が日々溢れていることに気づかされる。

フェミニスト映画として

 シャンタル・アケルマンは、本作について”フェミニスト映画”であると述べているようであるが、なるほど、確かに「家事」にこれほどスポットライトを当てた作品はこれまでなかったであろう。本作を観れば、当時は女性が行うことが当たり前であっただろう”家事”が、価値あるものであり、それは映画の題材になった場合にも十分に魅力を放つものであるということがわかる。他人が掃除したり、料理をしたりしているのを観ておもしろいのか?と思うかもしれないが、これが意外と見入ってしまうのである。信じられないと思う方は、ぜひ本作を観てもらいたい。

③ラストの展開について※ネタばれ含みます

 ジャンヌ・ディエルマンは、息子が学校に出かけている間に、売春をしてお金を稼ぐことが日課になっていた。3日目、いつも通り訪れた男を、性行為が終わった後に突如、ディエルマンが殺してしまうことで、彼女の規則正しい日常は終わりを告げる。

 私たちは映画を観るときには、何か非日常な出来事が起こるに違いないと無意識的に期待してしまう。私も中盤から、ラストの展開をまんまと予想してしまった。だからこそ、最後まで何も起こらないで欲しかったというのが、私の率直な感想である。なぜなら、現実において、大半の人の日常生活は大抵何も起こらないからだ。本作では、主婦の日常の普通の行為をひたすら映し続けるという、これまでにないものを撮ったことで、平凡な日常にも無価値なものはないと気づかせてくれた。だからこそ、最後までそれを貫いてもよかったのではないかと、個人的には感じてしまった。その一方で、女性の権利を訴えるための映画だったとすれば、ラストの展開は、社会の様々な制約により、平凡な日常から抜け出すことのできない女性の怒りと、解放への願いが込められていたのではないだろうか。

 いずれにせよ、人生の200分という時間を捧げるに値する映画であることは、間違いにない。