kimmaのシネマブログ

映画とたまに本・ドラマの感想・自分なりの解釈について。あくまで1個人の意見です…

『アネット』監督:レオス・カラックス

〇あらすじ(簡単に)

互いに人気絶頂のコメディアンのヘンリー(アダム・ドライバー)とオペラ歌手のアンは(マリオン・コティヤール)は惹かれあい、恋におちる。婚約し、娘のアネットが誕生すると、少しずつ二人の愛に亀裂が入りはじめ。。。

 

〇見どころ ※ネタばれ含みます。

①フィクションの明示

 本作は、出だしから他作品とは異なる点に引き付けられる。具体的には、スパークスと共に俳優陣が役ではなく俳優として出てくるのだ。この始まりは新鮮でおもしかったし、スパークスの音楽によって、これからどんな物語が始まるのだろうと胸が高鳴った。フィクションの世界の始まりと終わりが明示されることで、本編を観ているときには「これはフィクションで、私は今、物語の世界の中にいるのだ」ということを認識しながら客観的に観ている自分がいて、これはこれまでにない不思議な体験だった。

 

ミュージカル映画にも関わらず、終始感じる不気味さ

 ヘンリーの暴力性がだんだんと垣間見えてくる様子や、アネットが人形であること、アンのヘンリーに対する恨みなど、終始感じたのは「不気味さ」だ。ミュージカル映画というのは、明るくて楽しいというイメージがあったため、本作のように何か悪いことが起こるような雰囲気が物語全体を通して漂っているというのは、新鮮だった。レオス・カラックスは、唯一無二の監督だなと改めて感じた。

 

〇考察 ※ネタばれ含みます。

なぜアネットは人形だったのか?

 衝撃的なことに、娘のアネットは子役ではなく、ラストシーンまで人形である。その姿からは違和感と不気味な感じを誰もが抱くだろうが、なぜ人形だったのだろうか。それは、アンとヘンリーが、アネットを不気味な存在・人形として捉えていたからではないだろうか。

 アンは、特にアネットが生まれてから、少しずつヘンリーに対して嫌悪感を抱いていく。そのような中で、次第に娘のことも心から愛せる存在ではなくなってくるのではないだろうか。一方で、ヘンリーは、そもそも妻や娘を愛すことができない男だろう。嵐の中で二人がダンスするシーンにおいて、ヘンリーに振り回されているアンはまるで人形のようである。それは、つまりヘンリーにとってアンは愛すべき「人」ではなく、ただの人形になってしまったから、ヘンリーはアンを殺してしまうのではないだろうか。 また、ヘンリーは、アネットに乗り移ったアンの美声を利用して儲けるようになることから、アネットも愛すべき存在ではなく、稼ぐための「人形」としてか思っていなかったことは明らかである。さらには、この点においては、アンもヘンリーを恨むためにアネットにのり移った=アネットを利用した。つまり、アネットを道具=人形として捉えていたともいえる。だからこそ、アネットは人形だったのではないだろうか。

 それに対して、ラストシーンではやっとアネットは生身の子役に変わる。それは、アネットが二人から解放されたことで、二人の「人形」としてではなく、やっと一人の”人間”として生きていることができるようになったこを意味しているのではないだろうか。